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勉強がたいへんになるのは、勉強の楽しさに気づけないからだ。

気づけば、すぐに向上できる。

必ず、しなければならない勉強. VS   ぜひとも、したい勉強

    しなけれなならない勉強は、当たり前で、そのなかで人は鍛えられ、たくましくなる。

     これが、現実と思います。日本は文部省の学習指導要領によって、小中高校で、いわゆるしなければならない学習が決められています。それにおおよそ従って、学習が進められています。また、受験は学校によっては、応用問題や、スピードを競う試験があります。その難関を超える競争できたえられます。

     ここまでは、したい勉強というより、しなければならない勉強一色かもしれません。そして、この競争に勝つことが目標です。

次に、したい勉強をすることは、一般的に初めは、少ないように思います。しかし、しなければならない勉強をするうちに、したい勉強に変わることがあります。その変化が、学生さんの学習意欲を劇的に高めます。クラスで中ほどの成績でも、クラスで一番になることがあります。これほど劇的な成績向上ですが、周りの人は、もともと優秀だったと評価することが多いようです。例えば、よく使われる偏差値でいうならば、10アップすることや、20アップすることがありました。学生さんが、ある学問に興味や関心を高めて、勉強したい気持ちになると、劇的な向上があるので驚きです。

しかし、学生さんを前にして、それは無理と決めつけてしまう大人が多い。そして、指導者は、しなければならない勉強を、ガマンさせて勉強させ、伸ばすかを考えています。

 

 つまり、先生も、学生さんが、したい勉強になることを、目標にしてないのです。

食事ならば、これは、食べなければいけない食事か?、食べたい食事か?、どちらがよいか?ですね。

 

私は、学校の教員時代に理科の研究授業(多くの先生方が授業を見学する授業参観)を行いました。ここで、私は、多くの教員と真逆の授業を行いました。いわゆる、やる気のない教師役で、授業をするのです。「君たち、勉強したくないだろう。」と。普通は、やる気がない教員で、失格で、見学の先生方から批判殺到ですね。しかし、批判はゼロです。教師はやる気なしでも、反対に、生徒たちは、反抗期で?全員が夢中になり、学習に取り組んでいたのです。(生徒たちは、やる気です)

授業を見ていた教師の感想は、「普通ならば、理科が不得意で、消極的な生徒がクラスに2人、3人はいるはずなのに、全員が熱心に、生き生きと取り組む授業は、今まで見たことがない。」との感想でした。「生徒たち全員の熱心さは、何かの宗教みたいですね。」という先生の感想も出てきました。

     ポイントは、なぜ、あえて、やる気のない教師役の授業をしたのか?

反抗期だから、生徒たちは、やる気のない教師に反抗して、困ったなと危機感を持ち、反対に熱心になったかもしれないですが?

 

おいしいお菓子は、無理して、食べさせなくても、喜んで食べるものです。もし、隠されれば、懸命に探します。これが探究心です。世間では、勉強を、おいしくないお菓子と思う人が多すぎます。教師が教材をおいしくなるように、工夫して、生徒たちに与えれば、その教材が生徒たちをやる気にさせるものです。いわゆる、ほったらかしであれば、生徒たちが、「私たちは、おもしろいことをみつけた。」、そんな学問の宝物を発見する楽しさ体験するのです。

教員は、基礎以外は、生徒の発見する楽しさを奪うような、口出し、手出しはしないようにと、中国の古典の礼記にもあります。生徒たちは、学問の発見した喜びから、授業が宝探しをする楽しい時間になるのです。 (この幸福感が宗教のように感じられたのかもしれません)

 

よくあることですが、勉強ではこれができないと困るよと、本当であっても、教員が言ってしまえば、プレッシャーをかけて勉強させているようになります。もちろん、なんでも宝探しの発見ではありません。基本的な読み書き、計算などは、強制的に勉強させるものです。しかし、応用や発展的な勉強は、指導者は、口出し、手出しはしないこと。お宝を発見する楽しさを生徒から奪わないように、宝探しを体験させることが良い。すると、生徒が、ぜひ、したい勉強になり、毎時間の授業が楽しい時間になるのです。

 

クラスの生徒にも、成績の優劣があります。私は、わけへだてなく、いつも教育していましたが。その劣る生徒は、さすがに成績からくる劣等感から、授業も楽しくないだろうと想定していました。しかし、それは真逆で、一番、生き生きと勉強していたように、多くの参観者の先生方にも映ったと思います。授業で、クラスの全員が生き生きと熱心になるのは、これが根底にあったと思います。